タチレク*Tachireck

  宝 石
 タイの北の端、メーサーイという町にいた。
 ケ小平の顔が文字盤に描かれた腕時計が欲しいと彼女は言った。香港が中国に返還される記念につくられた腕時計。
旅の間中、僕はしょっちゅうそれを思い出していた。
「手に入らないだろうなぁ。だってGショックの限定生産品、発売日に行ったのに売り切れだって。みんな二日も三日も前から並んでたんだってよぉ!コレクターズアイテムって、日本ではもう絶対手に入らないんだわ」
 彼女が手に入れられなかったそのBaby-Gを、僕はそのあと探し回った。見つけられなかった。
東京の大きな川のほとりのカフェ。街の灯を映す川面。真っ白なシャツのウェイター。彼女の薄い笑顔。あの夜の光景が、アジアをうろつきまわって汗だくの僕の脳みそにしょっちゅう現れる。
メーサーイは隣国ビルマと接する国境の町だ。ビルマに入ったそこはタチレクという町で大きな市場がある。中国製品ばかりが集まってくると聞いた。ひょっとしてそこにならケ小平の腕時計が流れてきているのじゃないかと思った。コレクターなんぞ絶対に来ないここなら、そのへんにふきだまって転がっているんじゃないだろうか。バンコクから北部の町を点々とつなぐ間、僕はずっとそれを考えてきた。
 タチレクへ入るには小さな川を越えなくてはならない。その国境に架けられた橋を渡る。
『UNION OF MYANMAR』
世界中のほとんどの国が認めていないその国名が書かれたゲートが、橋の向こう側に建っている。
木々に覆われて川面はまったく見えないのだが、枝葉の切れ目から一瞬だけ川面が覗けるところがある。
そこを過ぎるとき、小さくて浅い、しかし国と国とを隔てるその川を渡る人を見た。赤ん坊を脇に抱えた女だった。僕はビルマ側の国境警備の兵士に気づかれないよう、立ち止まらずに歩き続けた。 橋の袂にひろがる市場は巨大なかさぶたみたいだった。
 灰色に薄汚れた天幕がかさなりつらなりあって、複雑にあたりを侵食していた。
 道端でメシを食っていた男が食いかけの皿を僕に突き出して、食え、5バーツだと言うその横を過ぎ、階段を下りて迷路の中に踏み込むと、氷の中に缶ジュースを詰め込んだリアカーを曳いた女やタバコのカートンボックスを両手にかざした子供たちや、電池式の安っぽい玩具の扇風機を僕の耳元で回す濁った目の男にたちまち取り囲まれて身動きが取れなくなった。

タイ側に戻るためふたたび国境の橋を渡るとき、真っ黒な雲が空を塞ぎ雷鳴がとどろいて、僕は走った。ちょうど川端
のカフェに飛び込んだとき、底が抜けたような雨が降り出した。昼間だというのに真っ暗になり、そこらじゅうを雨が叩
きつける轟音が塞ぐ。ときおり雷が間近に落ちる。
カメラを抱えているから無茶ができない。カフェといっても名ばかりのその掘っ立て小屋で、しばらく雨宿りをしなくては
ならなくなった。
蟻の巣のようなタチレクの市場を数時間うろついて、腕時計を並べたショーケースや露台をひとつ残らず僕は見た。そ
して結局、彼女が欲しがっていた時計は見つからなかった。
僕は彼女に何をあげたらいいんだろう。
あの光景がまた浮かぶ。
笑いながら携帯で株屋と話す彼女。若くてきれいな彼女。彼女は何だって持っている。何だって手に入れられる。こ
の上何を欲しがるんだろう。そんなにたくさんのものを持っているのに、なぜそれ以上欲しがるんだろう。


視線が目の前の"いま"に戻ると、カフェのすぐ外で胸の薄い中国系
の女が、土砂降りの中に突っ立っていた。白いシャツが透けるのもか
まわず、目をつぶって天を仰いでいる。
国境の川を渡っていた女が浮かんだ。背中や足取りに表れていた焦
燥感。強く脇に抱きかかえた赤ん坊。
少年がいつのまにか僕のテーブルの脇に立っていた。びしょ濡れだ
った。
少年は汚れたハンカチをテーブルの上に丁寧に広げ、見るとそこに
は赤い小さな石粒が数個転がっていた。
「ルビー」
 そうとだけ言うと少年は、あとは黙ってそこに立っていた。僕も少年と石を黙って見つめた。小屋の中はほとんど闇
で、テーブルの上の数個の不揃いな赤い石粒と、少年の丸い黒い瞳だけが光っていた。
ふと、彼女とはもう会うことはないんだろうなと思った。

文・撮影(たこ)

道草トップへ

(C)2003 Chinois Cinq